礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2022.10.23 主日礼拝 主イエスの許に帰ろう⑥「つまずきを乗り越えて」【マルコによる福音書 6章1~13節】(新共同訳 新約P.71)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 40章 28~31節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生1番「聖なる 聖なる 聖なるかな」
献金感謝 司式者
聖書 マルコによる福音書 6章1~13節
特別賛美 Oceans・Where my feet may fail
宣教 主イエスの許に帰ろう⑥「つまずきを乗り越えて」. 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生391番「向こう岸にわたろう」
頌栄 新生671番「ものみなたたえよ(A)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 「向こう岸に渡ろう」との主イエスの呼びかけに従った弟子たちは、異邦人の地・ガリラヤ湖東南側で驚くべき主の奇跡の数々を目撃します(5章)。その地を去り、再び向こう岸となる「故郷」ナザレへと戻り福音宣教を行う主イエス(6章)。注目したいのは、同じ主がおられながら、二つの地で生じた大きな違いです。5章では、悪霊に取りつかれた人が証し人へと人生を変えられ、長血を患った女性と会堂司ヤイロの娘が共に癒される神の業が起こされます。しかしイエスの生まれ故郷では「…何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。神の偉大な力を働かせないようにしたのは、主と出会う人々の主への「不信仰」が原因でした。ルカ福音書はイエスが聖霊によって母マリアの内に宿ったと告げ、マルコはイエスが父ヨセフと同じ大工としてナザレで過ごし、イエス誕生後、兄弟4名と妹たちが生まれたと記録します。30歳頃イエスがバプテスマを受け、父なる神より託された福音宣教を開始するまで、幼き頃より身近で知っていた人々は、目に見える「人間イエス」の姿だけで判断し「つまずいた<原意:罠にはまった>6:4」のです。人々は、思い込み・偏見・スレテオタイプという『枠』にはまった心で、神に遣わされた主イエスを見ようとしました。疑いの目と心で見つめられ、主イエスが神の御子としての本来の力を故郷では発揮できずに終わります。この出来事は、私たちも、自らの経験・思い込みを取り払い、どこまで主なる神の偉大な力に期待し、御言葉に聴き従えるかが問われます。
驚くべきことは、故郷で敬われない痛みを乗り越え、主イエスは付近の村を巡り歩き、一人でも神の真理と救いを必要とする人と出会おうとされる姿です。これまで弟子たちと共に行動されていましたが、更に広範囲で宣教活動を行うため、この日を境に弟子たちを二人組で遣わす宣教を開始されます。そこで彼らに「汚れた霊を追い出す権能」を授け、『宣教旅行の携行品』を限定されました。第一は、履物と下着一枚、そして「杖一本の信仰」です。これはかつて偉大な指導者モーセがエジプトの奴隷生活から民らを解放する働きを担うため、「杖(出エジ4:17)」で示された神の偉大な力を弟子たちの心に想起させるためでした。正に「信仰こそ旅路を導く杖」と賛美されるように、偉大な神の力にのみ頼る「信仰」を想起させます。私たちへ主イエスは、救いの象徴「十字架」を心に携帯せよと今は語られることでしょう。
もう一つの携行品は「見抜く『知恵』」です。「足の塵を払う」とは、福音を聞き入れない人々がいる場合、弟子たちが自らの責任と責め失望せず、次の宣教地へ新たに出向く心を整える儀式でした。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように、祈ります(フィリ1:9-10)」とのパウロの言葉と重なります。私たちは自らの不十分さ不完全さを忘れてはなりません。しかし同時に、福音宣教の業は主なる神の業であり、主に信頼して恐れずに遣わされていくための信仰、そして状況を見抜く知恵が聖霊によって注がれていることを感謝しましょう。
主イエスは私たちを主の弟子として霊的同伴者と共に養育され、日々生じる数々な「つまずき」を乗り越えさせ、新たな地へと導かれます。『神の国』を第一に求めるとき必要なもの全てを主は与えてくださる「信仰と知恵」を携え共に歩み出して参りましょう(マタ6:33)。